文化の改新(飛鳥時代)の功労者である中臣鎌足が死に際(669年)に天智天皇(中大兄皇子)から「大職冠」という当時最大級の冠位と「藤原」の姓を賜る。
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鎌足死後、息子の藤原不比等の時代から「藤原の朝臣」姓(かばね)を賜った。(659年 – 720年)
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不比等死後は、「太政大臣」という臣下では最高位の冠位を賜る。
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不比等の四人息子である藤原四家に託される。
特に房前(北家)は平安時代に入ってから藤原氏の流れの中で最も栄えた一族です。その後、天皇家と姻戚関係を結ぶ「摂関政治」と「他氏排斥運動」を積極的に行い地位を確実にしました。
源氏や平氏が武士として持ち始める前の藤原道長の時代(1,000年ごろ)に全盛期を迎えます。
北家は朝廷の権力闘争に勝ち続けた一族でした。
その後、公家藤原氏は天皇家に最も近い場所で戦後の華族制度廃止に至るまで政治を長い間支え続け、分家は多種多様の職種につき現在にまで至っており、藤原家が神職家を継ぐこととなりました。
大宮家(佐野家)は、武家藤原秀郷の子孫で藤原北家秀郷流です。
記録のある家系図には、藤原秀郷(鎌足の七世)、またその氏族(豪族)足利氏・佐野氏・木戸氏の氏族名が記載されています。
大宮家の元は、藤原足利氏の血を引き下野国(栃木県)の佐野氏の姓である佐野姓を一時期名乗っておりました。
現在大宮家の家紋は、佐野家の家紋と同じ「左三つ巴」です。
「近江のムカデ退治」伝承の英雄、「俵藤太」は藤原秀郷のことです。大宮家は、この秀郷の子孫です。
また、別に大宮家という天皇(日本国家)を中心とした朝廷にお仕えする貴族家がありますが、鎌倉時代から続く左三つ巴の家紋を受け継ぐ藤原北家宗院流の一族です。
公家の階級(家格)は「羽林家」で、公家の階級の中では中間の位置になります。
上記記述の二件の家紋はいずれも同じ「左三つ巴」であり、大宮家に改名し直したという証です。
上記家紋は、家紋のルーツとも言われている古い模様です。
684年桓武天皇13年に制定された八色の継承としての姓があり、朝臣は二位の位、藤原家は三位の位になります。
皇族以外の臣下の中では事実上、最も高い地位の姓を賜りました。
現在の大宮家当主は藤原 朝臣 大宮 信生とも呼べます。
このような歴史があることから大野神社に参拝する際は、「大宮さんに行く」と言われたりもします。
大野神社の拝殿幕を見ても、上位に藤原氏の家紋・下位に大野神社の家紋が描かれ、今でも藤原氏(大宮家)一族の名残があります。